<酒蔵の様子>
酒蔵では、酒造りが続いています。今回は、精米について。
昔は玄米を水で洗って、それを蒸して酒造りを行いましたが、室町時代には米をついて白米にするようになりました。現代は、米の周りを更に磨き落とした白米を用います。
米の表面に近い部分はタンパク質や脂肪などが多く含まれ、そのまま酒にしますと雑味の原因になるからです。
米の芯に近いほど純粋な澱粉が得られますので、米を多く磨いたものほど綺麗な味になります。磨いて、残った重量比を精米歩合と言いますが、「吟醸酒」と名乗れるのは精米歩合60%以下と決められています。即ち4割を磨き落とさなければなりません。
この為、特殊な精米器が工夫され、米を循環させながら徐々に米を磨いて行きます。60%になるまで大体30時間かかります。<今月のお薦め>の純米酒は、「吟醸」ではありませんが、60%まで磨いた米が原料です。違いを納得いただけることでしょう。
<今月のテーマ>
大和の寺社巡り、先月に続き奈良を代表する有名神社・春日大社の三回目、最終回です。
春日大社(かすがたいしゃ)<後編>
三条通りを東に向かうと興福寺を左手に、猿沢池を右手に見ながら緩やかな坂を登ります。目の前に柱の太い大鳥居、そこから奥に広がる三笠山の麓が春日大社の境内です。奈良公園の鹿は、春日大社の神鹿です。
春日大社は、平城京の守護神を祀ったのが起源です。やがて藤原氏の氏神を祀る神社として完成します。今に続く、その盛衰の歴史を追ってみましょう。
6.春日大社造営
768(神護景雲2)年、藤原北家の藤原永手が春日大社社殿を造営します。片手落ちにならないように武甕槌(たけみかづち)に加えて、もう一人の征服神・経津主(ふつぬし)を祀りました。
天児屋根(あめのこやね)は、天照大神(あまてらすおおみかみ)が天岩戸(あまのいわと)に隠れた時、祝詞(のりと)を読んだとされる藤原氏の始祖神です。実は680(天武8)年に日蝕がありました。
この時に祝詞を詠んだであろう不比等自身をモデルに創造したに違いありません。春日大社が藤原の氏神とされる所以(ゆえん)は、この神を祀ったことにあります。
後に比売神(ひめがみ)が加えられます。不比等は神功皇后の名を息長足姫(おきながたらしひめ)、その子の応神天皇の妻も息長氏としました。
何れも5世紀の王朝の開始にまつわる王族ですから、継体の百年も前の話しです。歴史の連続性を主張すると共に、祖先である息長氏を立派に見せようとした作り事と私は考えています。
その関係で、応神天皇と神功皇后を祀った宇佐八幡に祀られている航海の女神をここにも祀ったのでしょう。
7.平城京の時代
聖武天皇は、実権を握っていた長屋王一族を皆殺しにしましたが、その後次々と天変地異が起こり、天然痘の流行で藤原四兄弟が死ぬなど不安定でした。聖武はそれを長屋王のたたりと恐れて都を転々と移しました。
たたりを鎮める最後の切り札が総国分寺東大寺と大仏の建立でした。その後、娘の孝謙天皇(再度天皇になり称徳天皇)が僧道鏡と道ならぬ恋仲になり、もう少しで道鏡が天皇になりそうになりました。
そんな時期に春日大社が造営されました。造営から奈良時代末まで30年弱、御利益(ごりやく)はあったのでしょうか。既に仏教が主流になり、神仏習合の時代を迎えていました。
8.盛衰と現代
平安時代以降、神仏習合により興福寺の支配下に入りました。興福寺は藤原氏の氏寺です。藤原氏は平安時代まで政権を握っていましたので、多くの荘園を持っていました。そこから上がる莫大な収益を背景に中世には僧兵を擁し、絶大なる勢力を誇りました。
興福寺の学問所として創建された正暦寺は、荘園から上がる米を原料に酒造りが本業になって、儲けの一部を興福寺に上納していました。
中谷酒造のある番条町は、その酒を日本最大の商業都市で国際貿易港の堺に積み出す河川港として整備された集落でした。興福寺から派遣された僧兵の棟梁・番条(ばんじょう)氏が治めていました。
安土桃山時代には荘園制が完全に崩壊し、興福寺の勢力は衰えます。幕府管理下に置かれた江戸時代を経て、明治元年に廃仏毀釈で再び神社として独立しました。今日、春日の森に覆われた境内では、何事もなかったかのように静かな時が流れています。
春日大社、終わり
写真上 鹿の親子
写真下 猿沢池から見る興福寺五重塔