初冬 vol.14

投稿日:2005年12月16日

<酒蔵の様子>

新しい杉玉

 新しい杉玉がやってきました。11月27日、中谷酒造の門に飾られた杉玉を新しいものに取り替えました。

 杉玉は、円い竹籠に杉の葉を隙間無く刺して円く刈り込んだものです。毎年最初の新酒ができあがるこの時期に新しくします。新しい杉の葉は緑です。緑の杉玉は、新酒ができた印です。

 酒蔵では、毎週タンク1本の割合で新酒の仕込み作業が続いています。今シーズン最初の大吟醸の酒造りも始まっています。大吟醸は、最も高価な酒米を35%にまで磨いて、それを原料とします。春には新酒鑑評会に出品してその成果を競います。気の抜けない作業が続いています。

<今月のテーマ>

大和の寺社巡り、今月から三回に分けて奈良を代表する有名神社・春日大社の歴史に迫ります。では前編、お楽しみ下さい。

春日大社(かすがたいしゃ)<前編>

春日大社大鳥居

 三条通りを東に向かうと興福寺を左手に、猿沢池を右手に見ながら緩やかな坂を登ります。目の前に柱の太い大鳥居、そこから奥に広がる三笠山の麓が春日大社の境内です。奈良公園の鹿は、春日大社の神鹿です。

 春日大社は、平城京の守護神を祀ったのが起源です。やがて藤原氏の氏神を祀る神社として完成します。まずは藤原氏の起源に迫ってみましょう。

1.古事記、日本書紀(記紀)

奈良公園の鹿

 記紀編纂を通じて藤原不比等は、それ以前の記録を破棄し、神話時代から一貫して現王朝に続くかのような歴史を「創造」しましたが、真実は隠しきれるものではありません。

 考古学上の成果や中国、朝鮮半島の記録との突き合わせによって、少なくとも3回の王統の断絶があることが解ってきました。王統の開始に符号する天皇の名前は次の通りです。

 3世紀末から4世紀にかけて九州から絹、銅鏡を大和にもたらし、前方後円墳の建設を始めたのが「神武(じんむ)」東征と「崇神(すじん)」の統治であること。

 5世紀、大和に馬と馬具を持ち込んで前方後円墳を巨大化させたのが「応神(おうじん)」の東征とその統治であること。応神は中国の「宋書」倭国伝に書かれた倭の五王の「讃」にあたると思われます。

 越前、近江に先行して出現する百済式金銅製の豪華な冠や靴、金の装飾品を6世紀に大和に持ち込んだのが「継体(けいたい)」であること。

2.成り上がり?

 歴史の「創造」は、王統を安定させるのが目的でした。不比等は720年、日本書紀完成の年に亡くなりますが、その4年後に孫が聖武天皇として即位します。王統の安定は藤原家の安定でもありました。

 それにしても、中臣鎌子(鎌足)が登場して「大化改新」で手柄を立て、死の間際に天智天皇から藤原姓を賜り、その子の不比等が成り上がって天皇に娘を嫁がせるなど、あまりにも短期間のことで不自然です。

 記紀には、その百年前にも仏教受け入れをめぐる蘇我と物部両氏の争いに中臣鎌子という同名の人物が登場しますが、「大化改新」の伏線として「昔から蘇我氏の横暴に反対していた」という主張の為に挿入したに過ぎないようです。

 思い浮かぶのは藤原氏の登場とともに歴史から消える名門、息長(おきなが)氏のことです。

3.藤原氏の正体

 26代継体天皇の父は息長氏の本拠、近江の安曇川流域の彦主人(ひこうし)王です。母は越前の美人で一目ぼれ、やがて継体が生まれます。王は若くして亡くなりましたので、継体は越前で育てられます。

 継体の妻の一人は息長氏。30代敏達(びだつ)の妻も息長氏。その間に生まれた子が34代舒明(じょめい)天皇の父であり、38代天智・40代天武の祖父にあたる人です。舒明は息長足日広額と呼ばれました。

 天武の孫が42代文武(もんむ)。文武は不比等の娘と結婚し、その間に生まれた45代聖武(しょうむ)が更に不比等の娘と結婚します。

 継体の父である彦主人王が息長氏であったとすれば、継体に始まる天皇家は息長氏だったことになりますが、王が越前から来て息長氏を支配していたとすれば、息長氏を藤原氏と読み替えても違和感がなさそうです。

次号に続く

写真上 新しい杉玉
写真中 春日大社大鳥居
写真下 奈良公園の鹿