キンモクセイが甘い香りを漂わせます。大和路では、秋真っ盛りです。
酒造好適米「山田錦」を収穫することができました。例年なら晴れが続く体育の日の前後が雨でしたので、今年は10月13日に刈り取りました。
快晴に恵まれ、9時ともなると朝露が乾き始めました。気温はぐんぐん上がり、汗が流れます。1枚の田を刈る毎に米を酒蔵の駐車場に運び込み、シートの上に広げて天日に干します。そうして3枚の田を全て刈り終えたのが午後4時。さすがに疲れました。
刈り終えた田んぼはコオロギとカエルの天下。コオロギがしきりに鳴いていました。
酒造りが始まりました。まだまだ気温が高いので、早朝の冷気を利用して蒸し上がった米を冷まします。発酵温度を押さえる為に、仕込み水は零度近くに冷やし、氷と共にタンクに入れます。
毎週一本ずつタンクに仕込んで行きます。これから3月まで、酒の仕込み作業は続きます。
<今月のテーマ>
大和の寺社巡り、今月は酒造りの神様・三輪神社と同じ時期に、ペアで創建されたとされる大和神社(おおやまとじんじゃ)です。
大和神社(おおやまとじんじゃ)<前編>
奈良盆地を取り囲む東の山裾に程近く、平地の中に浮き立つような木立に囲まれて社があります。東には古墳群、南東数キロ先には聖なる山・三輪山(みわやま)を見ることができます。
有名な神社ではありませんが、その鳥居の大きさ、立派な参道は古来、神格が高かったことを納得させてくれます。太平洋戦争末期に戦艦大和に祀られたのはなぜか、その謎に迫ってみましょう。
1.歴史書の記述
古事記、日本書紀(記紀)に書かれた創建の様子は次の通りです。
崇神(すじん)天皇は疾病の流行と反乱が起きたので宮廷(大殿)に一緒に祀られていた天照大神(あまてらすおおみかみ)と大国魂(おおくにたま)を分け、天照は笠縫邑(かさぬいむら)に、大国魂は大和邑(おおやまとむら)に移しました。
それでも収まらないので、大物主(おおものぬし)に神意を問えば、大田田根子(おおたたねこ)に自分を、長尾市(ながおいち)に大国魂を祀らせなさいと言います。
そこで、物部氏の作る八十枚の小皿を用いてそのとおりに祀ると疫病は終息したと言います。大物主を祀ったのが三輪神社、大国魂を祀ったのが大和神社です。
2.記紀の信憑性
崇神天皇は3世紀末から4世紀初頭の人です。一方、大田田根子の祖先は秦(はた)氏ですから5世紀に朝鮮半島南部から移住してきましたし、物部氏は5世紀の応神(おうじん)天皇の東征に付き従って九州から大和にやってきたようですから、時代が合いません。
事実と異なる歴史を記録した理由を知るには、記紀が編纂された時代背景を知る必要があります。
3.記紀の背景
壬申の乱(672年)に勝利した天武天皇は、中央集権国家の建設を急ぎます。当時国政の最高実力者であった藤原不比等は、歴史書の編纂を通して政権の正統性を強化することにしました。
そこで、少なくとも3回あったと考えられる王統の断絶を無視して、初代神武天皇から現天皇に繋がる「万世一系」の天皇による統治として歴史を「創造」したのです。古事記は712年に、日本書紀は720年に完成します。
不比等は、滅ぼされた王やその神を「偉大なる祖先神」として記録すると共に、それらを現実に示す「形」として、神社を建設していったと考えられます。
4.創建の時期
不比等は、新益京(あらましのみやこ)を自己の姓に因んで「藤原京」としたばかりでなく、その造営年代を遅くするなど、自分の生きた時代の記録までも改変しました。
日本書紀によると、691(持統4)年に藤原京域の地鎮祭を行い、翌年に伊勢、大倭(大和)、紀伊、住吉の4社に新しい都を報告、694年に遷都しました。発掘調査の結果、持統の夫の天武天皇の時代670年代から藤原京の造営が始まっていたことが判明しています。完成間近に地鎮祭を行うのは不自然です。
この記述は692年以前にこれらの神社、とりわけ大和神社が存在したことを主張するのが目的のようです。何れにせよ、大和神社はこの頃に完成したに違いありません。
次号に続く
写真上 稲刈り
写真中 大和神社大鳥居
写真下 大和神社拝殿