新緑の季節 その2 vol.8

投稿日:2005年6月10日

<酒蔵の様子>

山田錦の苗(6月3日撮影)

 酒造好適米「山田錦」の苗の成長報告です。

 5月2日に籾を播いた山田錦の苗が10センチ余りに成長しました。コンクリートの上で育てていますので、一日一回水をもらえるだけの厳しい環境です。苗は栄養不足で黄色みを帯びてきました。

 昔から、稲の三黄(さんこう)と言って苗の時期は稔りの時期と並んで黄色みを帯びるのが良いとされます。強い苗に育つことでしょう。

 田植えは、6月14日に行う予定です。

<今月のテーマ>

*中編* 熊野の神仏習合

5.神仏習合

 平安後期、この世の終わりが来るという末法思想が広まります。どうせ死ぬならあの世で極楽に行きたいと誰もが考えます。そこで貴族の間では来世を救済してくれる阿弥陀如来の信仰が広まります。

「阿弥陀さんを信じて西方極楽浄土に行こう!」という浄土信仰です。あの豪勢な宇治の平等院はこの信仰に基づいて建てられたものです。

 その頃、仏教が広まるにつれ、日本古来の神の存在が邪魔になってきました。頭の良い人がいるもので、「実は神は仏が形を変えて現れたもの、即ち権現であり、その正体は仏である」としたのです。この考えにより、神は仏教に取り込まれて行きます。

 本宮大社の主神は熊野坐神(くまのにいますかみ)という名です。文字通り「熊野に居る神」ですから、名前からは何を祀った神か、さだかではありません。その後、家都美御子神(けつみみこのかみ)と呼ばれるようになりましたが、これが実は阿弥陀如来であるというのです。

6.熊野詣の始まり

那智の滝

 熊野路は、今でも交通の不便な所です。如何に遠く困難な道のりであろうと、あの世の極楽には代えられません。藤原政権に陰りが出て、武士の世が始まろうとしています。白河上皇は、極楽浄土を求める熊野詣を始めました。

 現世の不安は熊野詣の繁栄に繋がります。どうせ行くなら他の二社もついでに回ろうと考えるのが人情というものです。

 那智の主神・牟須美神(むすみのかみ)は千手観音で現世利益をもたらすとされました。南にあると信じられた補陀落(ふだらく。観音浄土)信仰の聖地になりました。

 速玉の主神・速玉之神(はやたまのかみ)は薬師如来で過去世を救済するとされました。東にあると信じられた浄瑠璃浄土信仰の聖地になりました。

 本宮へは、白河上皇9回、鳥羽上皇21回、後白河上皇に至っては34回も詣でています。後白河上皇は、新宮と那智へは15回ずつしか詣でていないので、やはり信仰の始まりはもとより信仰の中心も本宮であったことが解ります。

7.熊野詣の広がり

 鎌倉時代は庶民に仏教が広まった時代です。庶民に解り易い新しい宗派が起こります。それを鎌倉仏教と言いますが、その中でもとりわけ浄土教系の時宗が熊野信仰を庶民に広めました。

 更に山伏の活動、そして戦国時代から江戸時代にかけて熊野比丘尼(くまのびくに)と呼ばれる熊野信仰を布教して諸国をめぐった女性芸能者の活動で、全国に熊野詣が流行していきます。

 江戸時代には伊勢信仰と庶民の娯楽としての旅が融合し、伊勢参りが盛んになりました。伊勢参りの旅程に熊野詣も組み込まれて行きます。

(次回に続く)

写真上:山田錦の苗(6月3日撮影)
写真下:那智の滝