<酒蔵の様子>
酒造りの作業は、全て終了しました。蔵では、道具や機械設備の清掃や片付け作業を行っています。洗った道具は、春の陽射しと風でカラリと乾きます。
その一方で次の酒米作りが始まりました。中谷酒造では、今年も山田錦と呼ばれる品種を栽培します。
5月2日、種籾を水に漬けました。水を浅く張って、陽当りの良いところにおいておくと胚芽がふくらんで来ます。6日、パレットに山砂を入れ、その上に播きました。
普通は水田の上に並べて水と土の栄養を吸わせるのですが、この山田錦は酒蔵の外のコンクリートの上に並べて水だけで育てます。あえて厳しい環境で、強い苗をつくります。
<今月のテーマ>
中谷酒造のある番条町の氏神様は熊野神社です。そのルーツを訪ねて伊勢神宮内宮から熊野に足を伸ばしました。
世界遺産に指定されたのを契機に、熊野本宮大社、那智大社、速玉(はやたま)大社の三神社にお参りされた方も多いことでしょう。江戸時代、「蟻の熊野詣」と言われるほど賑わったこの信仰の旅路が、実は仏を拝む旅であったことは意外に知られていません。
古代信仰に仏教が結びついたものが熊野信仰でした。その本質は熊野本宮の極楽浄土信仰だったのです。ところが明治元年の廃仏毀釈により仏教は排除され、古代信仰の神だけが残りました。
信仰の柱を失って神社に生まれ変わった三社では、それらの神がなぜ信仰の対象になったのか、千五百年経った今では、語れる人はいません。
今月から、古代信仰(前編)、神仏習合(中編)、廃仏毀釈(後編)の3回に分けて熊野信仰の歴史を追ってみましょう。
*前編* 熊野の古代信仰
1.三輪の例から
本宮大社と那智大社は、崇神(すじん)天皇の世に創建したといいます。崇神は、九州からの神武(じんむ)東征を継いで4世紀に大和に入り、大和王権を始めた人で、太陽神・天照大神(あまてらすおおみかみ)を大和に持ち込みました。
崇神が天照大神を祀ろうとした三輪山は、古代より山そのものが御神体とされてきました。
現在、三輪山には大神神社(おおがみじんじゃ)がありますが、今のように立派な神社建築が建てられたのは、今に伝わる歴史、即ち古事記と日本書紀が創られていった7世紀末から8世紀初頭と考えられます。
それまでは、山そのものを拝む場所を示す鳥居のようなもの、或いは小さな社(やしろ)が建てられていたに過ぎないことでしょう。
おそらく、被征服者が神として崇めていた自然神を拝む場所にそのようなものを建てたのがこの二社の始まりと思われます。那智においては滝、本宮においては川に関係がありそうです。
2.謎の新宮
新宮にある速玉大社によると、崇神天皇の二代後の景行天皇の代に神倉山に熊野三社権現が降臨し、奈良時代の孝謙天皇(聖武天皇の娘)の代に「熊野権現」の称号を三社の中で初めて賜ったので速玉こそ熊野詣の起源であるとしています。
「権現」を使うのは平安時代になってからですので、この素性は怪しそうです。
3.水の神
速玉大社では、権現が降臨した神倉山から移られたので、神倉神社が本宮、自社が新宮で、それが町の名の由来であるとしています。
本宮で音無川、岩田川の二つの川が交わる熊野川は35キロ下流の新宮で熊野灘に注ぎます。やはり本宮に関係のある神を河口で新たに祀ったから新宮と考えるのが素直です。
那智は、本宮とは川筋こそ違うものの滝が地上に降り注ぐ水と地の交わり、本宮は中流の川の交わり、新宮は川と海の交わりになり、「水」に三社の共通点が見い出せます。
三社は何れも水に関する古代の信仰がその起源であるように思えます。三社は、互いにそれらの主神を主要な三神として祀っています。
4.航海の女神と造船の神
速玉大社では主神・速玉之神(はやたまのかみ)に加えて女神である牟須美神(むすみのかみ)も同格の主神であるとしています。牟須美神は、那智の主神ですから奇妙なことと言わねばなりません。私は中国で信じられていた航海の女神の影を感じます。
新宮には徐福伝説があります。徐福は、秦の始皇帝をスポンサーにして東の海へ不老長寿の薬を探す旅に出たまま戻ってこなかったとされる人物で、日本各地に徐福が文化を伝えたという伝説が残っています。
徐福が実際にやってきたかどうかは別にしても、ここが古来中国と交易をした港であるなら、航海の安全を祈る神を祀ったはずです。
そう考えますと、速玉の御船祭は中国のカッター競技・ペーロン(白龍)に重なって見えてきます。又、本宮の主神・家都美御子神(けつみみこのかみ)が造船の神でもあるというのも面白いではありませんか。
(次回に続く)
写真上:山田錦の苗
写真下:速玉神社