「物部」は天皇の形容詞だった!<古代史の謎は血縁関係で解ける>第一章 出雲から大和へ
【アラカン社長の徒然草vol.96】

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清酒 萬穣 豊臣秀長

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読者の皆様へ:
 筆者が書き貯めた古代史に関する文章を書籍に見立て、2017年8月より毎月一回、一章の割合で2018年11月まで連載します。
 本メルマガで既に発表した文章を元にこの連載に合わせて再構成し、内容を修正、補充したものです。
 本連載のバックナンバーはVOL.94までとは別にファイルします。
*記紀に記された日本の固有名詞について。
表音に使った漢字が両書で異なることがありますので、読者の便宜のため基本的にカタカナで表記します。
*天皇名
奈良時代後期から使用される漢字表記のおくり名を使います。
*西暦年
西暦年表示を標準としています。括弧内に半角数字のみ書いたものは西暦年を示します。人名の後に二つの数字をハイフンで結んだものは生年と没年を示します。
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 2世紀。中国には漢という国があり、北は今日の遼寧省あたりから南はベトナムまで、西はタリム盆地の手前までを領土としていました。その2世紀の第4四半期に入ると地球規模で気温が下がりました。作物は稔らず、各地で飢饉が起きたことでしょう。中国では184年に黄巾の乱と呼ばれる農民反乱が起こり漢は実質上統治機能を失います。寒冷な気候を避け、西からは遊牧民族の羌(きょう)や氐(てい)が侵入を始め、北からは騎馬民族の匈奴(きょうど)が南下してきます。気候は短期間である程度回復したようですが、3世紀に入ると漢は滅び、魏呉蜀の三国時代へ突入します(厳密に言えば魏の北にあった燕を含む四国時代であり、朝鮮半島を支配していた燕が魏に滅ぼされた翌239年にヤマト国のヒミコは魏に遣いを出します。ヤマト国については第十五章でも述べます)。
 気候寒冷化の影響で朝鮮半島に南下してきた民族から日本に製鉄技術が伝わります。気候が回復するにつれ弥生時代が終わり古墳時代が始まります。最初に大古墳が築かれるのは2世紀末の出雲。まずは出雲から話を始めましょう。

 古事記と日本書紀(以下、記紀)にはいわゆる出雲神話が書かれています。因幡(いなば)の白ウサギを助けるのは大国主(おおくにぬし。注)。大国主は海の彼方からやってきた少彦名(すくなびこな)の助けを借りて葦原中国(あしはらなかつくに)を平定します。これらの舞台は出雲(島根県東部)、伯耆(鳥取県西部)、因幡(同東部)ですので、葦原中国はこの一帯のことでしょう。近年の発掘調査で2世紀から3世紀にかけての同国の様子が明らかになってきました。

注:大国主はその名の通り葦原中国の王であるが、国土創造神とも考えられる大己貴(おおあなむち)はじめ大物主(おおものぬし)、八千戈(やちほこ)、大国玉(おおくにたま)、葦原醜男(あしはらのしこお)など多くの名を持つ。記紀の編者は出雲の神々を「大国主」に代表させようとしたものと思われる。

1.都市

 葦原中国の、特別な集落と考えられるのが妻木晩田(むきばんだ)遺跡です。
 遺跡は鳥取県西部の大山町の日本海から2km離れた丘陵の尾根上にあり、900棟以上の建物跡、30基以上の墳丘墓が発見されました。「東西約2km、南北1.7km、面積約170ヘクタール(国史跡指定約152ヘクタール)にも及ぶ弥生時代の遺跡としては国内最大級の広さを誇ります。」(鳥取県立むきばんだ史跡公園パンフレットより)
 同時期に全ての建物が存在した訳ではなく、紀元前後から3世紀後半までの300年弱、人口密度がかなり低い集落であり続けたことが判明しています。墓地群が建物のそばにあることから祭祀を行う特別な集落であった可能性が高そうです。
 3世紀後半にこの集落は放棄されます。後に述べますが、九州勢力(ヤマト国)との戦に敗れたものと私は考えています。

写真1:妻木晩田遺跡から見る日本海と米子の街
写真2:竪穴式住居骨組(鳥取県むきばんだ史跡公園弥生の館)

2.港湾集落

 鳥取県中部、倉吉市街と鳥取市街の中間あたり、青谷平野には港湾集落がありました。青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡です。妻木晩田(むきばんだ)遺跡から東に37kmです。
 この遺跡は日本海に臨む入り江にあり、護岸工事の跡や倒壊したまま泥に埋まった建物、大量の生活用具、人骨が発掘されました。泥の中は適度な湿度があり、酸素が遮断されますので、木製品が非常に良い状態で残りました。人骨には脳も残っていました。
 住民の主たる糧は漁業と農業。骨角製のヤスやモリ、釣り針、石で作られた漁網の錘(おもり)、それに木製の鍬や鋤、石包丁などの農具が出土しました。狩猟も行いました。イノシシや鹿の骨がたくさんみつかっています。鉄製の鑿(のみ)や刀子で精緻な木製品も作られました。
 驚くべきは交易範囲の広さです。北陸、北九州、瀬戸内海沿岸、近畿地方で作られた土器、それに中国・新王朝(紀元8-23)の貨幣、朝鮮半島で作られた鉄斧などが出土しています。漁港としてのみならず海上交易拠点としても機能していました。
 千人分以上の人骨が発見されていますが、その内少なくとも109人分の人骨は埋葬されず溝の中に捨てられた状態で発見されました。「この人骨群の中には、鋭い刃物で傷つけられた骨が約110点(10数人分)見つかっています。何らかの理由で殺傷された人々と考えられます。これらの人々は約1800年前に生きた人々でした。」(青谷上寺地遺跡展示館展示パネルより)。中には真っ正面から額に斧を打ち込まれたと思われる女性の頭骨もあります。大国主が葦原中国を平定する過程で戦があったのかもしれません。
 この遺跡は3世紀後半、生活道具もそのままに突然放棄されて終末を迎えます。ヤマト国に滅ぼされたものと私は考えています。

写真3:精緻な木製品(青谷上寺地遺跡展示館)
写真4:弥生人の脳レプリカ(青谷上寺地遺跡展示館)

3.大古墳の出現

 島根県出雲市役所の南東2kmに広がる西谷丘陵上には2世紀末から3世紀後半にかけて造られた古墳群があります。その内、2号墓、3号墓、4号墓、9号墓は一辺30m以上もある方墳で、何れも四隅(よすみ)が突出しており、四隅突出型古墳と呼ばれます。このような大古墳は葦原中国ではここにしかありませんのでこれらは王墓と推定できます。後に大国主が祀られる出雲大社は西北10kmに位置します。
 上述の妻木晩田遺跡にある幾つもの古墳は規模が小さいもののやはり四隅突出型です。この祖型は朝鮮半島北部、当時の国名で言えば高句麗(こうくり)に見られますので、葦原中国は朝鮮半島と密接な関係を持っていたことが解ります。妻木晩田遺跡南側の孝霊山は、高麗山とも書きます。記紀に書かれた少彦名(すくなびこな)は海の彼方からやってきて、大国主を助けて葦原中国を平定し、やがて海に去って行きます。少彦名は高句麗系渡来人を象徴しているようです。
 大古墳を造る土木工事には鋤や鍬など豊富な鉄製道具が必要です。出雲は、2世紀末に高句麗から製鉄技術がもたらされ、いち早く弥生時代から古墳時代に移行したことが解ります。鉄製農具により農業生産性が向上し、人口が増えました。鉄剣、鉄の矢尻など武器の性能も上がり、葦原中国は出雲から因幡まで勢力を伸ばし、更に奈良盆地を目指します。
 なぜ奈良なのか。それは奈良盆地は本州中央にあり、物流ルートの要に位置したからです。先ず、九州、四国、瀬戸内海沿岸の物資は大阪湾から河内湖、大和川で水運が可能でした。日本海側の物資は、敦賀から僅かな距離の陸送を挟んで、琵琶湖湖水交通、宇治川、巨椋池、木津川を経て奈良盆地の北隣、木津まで船で運べました。東からは二経路。伊勢湾から鈴鹿川、僅かな距離の陸送を挟んで木津川に至るのが一つ。もう一つは伊勢湾から揖斐川下流域、関ヶ原を越える陸送、そして琵琶湖湖水交通に繋がりました。これらのルートは明治時代に鉄道輸送が始まるまで使用されました。

関連地図(筆者作成):
出雲大社●      妻木晩田遺跡
  西谷丘陵●← 65km →●←37km→●青谷上寺地遺跡
   荒神谷遺跡●     △高麗山

写真5:西谷古墳群2号墓(出雲弥生の森)
写真6:西谷古墳群3号墓(出雲弥生の森)
写真7:四隅突出型墳墓(妻木晩田遺跡)
写真8:妻木晩田遺跡から見る高麗山
古代大和水運図

4.出雲の痕跡

 記紀によれば、ある時、海に光が射し大国主の分身(大物主)が現れ、その言葉に従って大国主(おおくにぬし)は大和の三諸山(みもろやま。奈良県桜井市三輪山)に大物主(おおものぬし)を祀ります。出雲を中心とする葦原中国(あしはらなかつくに)の勢力が奈良盆地にまで及んだことを示しています。私はこれ以降の葦原中国を出雲王朝と呼びます。
 三輪山をご神体とする大神神社(おおがみじんじゃ。桜井市三輪1422)の祀神は大物主です。三輪山の南東際には出雲の地名が今も残ります。
 出雲王朝が奈良盆地に成立したとすれば、前方後円墳ができ始める前の遺跡にその痕跡が残るはずです。現在その時期に該当する二つの遺跡が明らかになっています。
 一つは田原本町(たわらもとちょう)の唐古・鍵(からこかぎ)遺跡。奈良盆地は東西15kmと狭く、そのおおよそ中央に位置しますので弥生時代の奈良盆地の中心都市と推測できます。面積は30haと推定され、三輪山は南東数km先に見えます。この遺跡からは近畿圏はもちろん、東は天竜川、三河、尾張、美濃、伊勢、伊賀、それに備前の陶器が出土しますが、出雲など山陰のものは出土しません。どちらかと言えば備前(岡山県)との関係が深そうです。この大規模な集落は3世紀に入ると急速に衰退し、放棄されたことが解っています。
 もう一つは桜井市の纏向(まきむく)遺跡。三輪山の裾野にあり、面積は300ha。唐古・鍵遺跡から東に2km。ほぼ隣り合う位置です。発掘調査が進み、2世紀末に出現し4世紀中頃まで続く政治・祭祀の中心都市であったことが判明しています。出土する土器は東海地方のものが半分を占めますが、注目すべきは山陰・北陸のものが17%を占めることです。葦原中国は2世紀末に奈良盆地に入ってここに都市を築き、先住者であった唐古・鍵遺跡に住んでいた人々を追いやったようです。しかし王墓の痕跡はありません。一方、先に述べたようにその時期から3世紀後半にかけて出雲の西谷丘陵に大古墳が造られます。葦原中国では奈良盆地に進出した後も王墓は母国である出雲に造り続けたと推定できます。
 それら大古墳の上面には4本の柱跡があり、柱に囲まれた部分から儀式に使われたであろう多くの土器が出土しました。土器の少なからぬ部分は備前(岡山県)や越前(福井県)から運ばれたものです。葦原中国はそれらの地域を支配していたものか、或いはそれらの地域に存在した国の盟主だったと推定されています。
 記紀によれば出雲王朝の人々も太陽神を信仰していました。その祭祀の場所は、その所在地の地名から枚岡神社(東大阪市出雲井町)と推定できます。日本書紀によれば九州から東征してきた神武天皇は草香(くさか)に至ります。草香は東大阪市日下町(くさかちょう)に地名が残ります。
日下町は枚岡神社から北に坂を下った平地で、当時そこは河内湖に面しており大阪湾から船で到達できました。「くさか」の「くさ」は、猛々しいという意味。「か」は、太陽を意味します。次に述べますが、ヤマト国が出雲王朝を攻めるにあたり、先ずは太陽神を祀る重要な拠点を目指したことが解ります。

写真9:大神神社(通称三輪神社)鳥居
写真10:枚岡神社鳥居
写真11:枚岡神社本殿

5.国譲り

 記紀によりますと、大国主は太陽神アマテラスに派遣されたタケミカヅチに国を譲ります。その代償に建ててもらうのが出雲大社です。
 記紀は、日本の歴史を古く見せるために内容を引き伸ばす必要があり(第九章で詳しく述べます)、同じ話を2回に分けて書いています。最初は神話時代の話としてタケミカヅチに譲ったと記し、次に神話と歴史の中間に位置する神武(じんむ)天皇が九州から遠征して大和に入って初代天皇になったと記し、更に第10代崇神(すじん)天皇を現実の初代天皇として描きました。何れにせよ、九州から太陽神を奉じて東征した勢力が今日の奈良県を中心とする地域から出雲王朝を駆逐し、母国の出雲をも征服したというのです。
 3世紀の第3四半期、奈良県桜井市に前方後円墳の築造が始まります。九州から東征して来た勢力・ヤマト国も豊富な鉄を背景に勢力を伸ばし、奈良盆地を中心とした政権を打ち立てたことを示しています。記紀の記述では、初代神武天皇から架空の欠史八代(第2代綏靖天皇から9代開化天皇までは実在性に乏しく、こう呼ぶ)、それに実質上の初代である第10代崇神から14代仲哀(ちゅうあい)天皇までの期間です。私はこの王朝を実質上の初代天皇の名に因んで崇神王朝と呼んでいます。
 纏向遺跡は4世紀中頃までのものです。3世紀第3四半期に九州から来たヤマト国も引き続きここを都と定めたであろうことがうかがえます。広大な遺跡の一部が発掘されたにすぎません。今後、徐々に出雲王朝の痕跡がみつかることでしょうし、東遷後のヤマト国の状況も明らかになるはずです。
 ここでヤマト国の祭祀の場所についても述べておきましょう。
 一つは大和神社(おおやまとじんじゃ。天理市新泉町)。纏向遺跡の北側です。祭神は、大国魂(おおくにたま)。筆者はヤマト国の王達の魂を祀っていると考えています。
 もう一つは檜原神社(ひばらじんじゃ。桜井市三輪)。聖なる山・三輪山の裾野、奈良盆地に最初に造られた前方後円墳(箸墓古墳)の真東1.4km。太陽を祀ります。社殿はなく、二本の柱に縄を渡した鳥居が立つだけの原初的な神祀りの姿を留めます。
 記紀の記述では宮中にて祀っていた両神を、崇神天皇の時代に「百姓」(一般庶民のこと)の「流離」や「背叛」があった為、それを鎮めるために移して祀り始めたとしています。しかし物部氏が作った八十(多いという意味)の皿で大国魂を祭ったとあり、次の物部王朝になってから滅ぼされたヤマト国の王の祟りに思い当たってそれを鎮めるために祭祀が始まったのかもしれません。

写真12:大和神社
写真13:檜原神社

6.出雲の祭祀

 昭和58年(1983)のことです。大きな四隅突出型古墳のある西谷丘陵から約10km東の島根県斐川町で、それまで日本全国で出土した総数を上回る358本もの銅剣が、整然と埋められているのが発見されました。更に翌年、数メートル離れた所から銅矛(どうほこ)16本、銅鐸(どうたく)6個が発見されたのです。荒神谷(こうじんだに)遺跡と命名され、博物館を含む立派な公園が整備されました。
 これら銅剣や銅矛は実用品ではなく祭器です。鳥居龍蔵博士(1870-1953)は、水田稲作が始まった中国長江(揚子江)流域では青銅製の祭器が用いられ、祭りが終わると丁寧に地中に埋めて保管したとしています。次の祭りに使うつもりで荒神谷に埋め、何らかの理由でそのままになってしまったのでしょうか。
 紀元前8世紀に訪れる急激な気候寒冷化の時期、中国では周王朝が衰微して遷都し(前771)、春秋戦国時代が始まります。北から押し寄せる難民の圧力に耐えかねた稲作農民は、東へは海を越えて日本列島や朝鮮半島南部に移住しました。弥生時代の始まりです。稲作農民は陸続きの南へも移住し水田稲作が拡がって行きました。中国のほとんどの地域、日本や朝鮮半島では青銅製の祭器を用いる習慣そのものが廃れてしまいましたが、南への伝播ルートでは受け継がれている場所があります。例えば中国貴州省。「ミャオ族では、いまも胴鼓が村の祭りのときに楽器として用いられている。かつては埋納されていたという。」(佐々木孝明著「日本文化の基層を探る」P.99写真説明より)

写真14:銅剣(国宝。荒神谷博物館)
写真15:銅剣出土現場
写真16:銅剣出土情況模型(荒神谷博物館)

7.刻印と放置

 荒神谷遺跡で発見された祭器ですが、埋めた時期は特定できません。358本の銅剣の内、344本の茎に×印が刻印されていることが気に掛かります。
 「時代が下って編纂された『式内宮』として認められた神社の、出雲地方での総数と出土した銅剣の本数との奇妙な一致があげられる。」(Wikipedia「荒神谷遺跡」より)
 戦に勝ったヤマト国が、出雲各地で行われていた祭祀を一律に禁じ、祭器を集めて埋めたのでしょうか。
 平成8年(1996)、荒神谷から山を隔てて3km余り、加茂岩倉遺跡から39個もの銅鐸が発見されました。内、13個にも×印が刻印されていました。荒神谷遺跡と関係がありそうです。

写真17:銅剣に刻まれた×印(荒神谷博物館展示パネル)

第一章終わり