梅干し作り、苗の成長【酒蔵便りvol.163】

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<梅干し作り>

 

 酒蔵とは関係のないことですが、この時期は毎年梅干し作り。6月8日、庭の梅の実を収穫し、塩漬けにしました。今年は豊作で、四つの容器になりました。
 6月17日、赤紫蘇を買いに近所のスーパーに行ったのですが、塩をしてあく抜きした加工品しか手に入らず、それを塩漬け容器の上に並べ、また重し代わりの皿を載せて二週間。6月30日は梅雨の合間の晴れ。梅を取り出して浅い皿に並べて干しました。赤い梅酢が得られましたが、実はそれほど赤く染まらず残念。
 うまいぐあいに晴れが続き、7月3日の午後完成。その夜、茶漬けで一粒食べました。まだ果実の甘い香りが残っており、本当に美味しく感じました。

<苗の成長>

 関東地方は、早々と梅雨が明けましたが、西日本には台風7号が近づき夏の日射しの合間に雲が入り雨をもたらしました。
 7月4日は台風が熱帯低気圧に変わり、夕刻より晴れ間が広がりました。水田を見に行きましたが、山田錦の生育は順調です。
 5日から梅雨の長雨が始まり、豪雨に変わりました。6日の朝はそばの佐保川が危険水位に達し、やきもきしましたが被災は免れました。結局雨は7日まで断続的に続き、「平成30年西日本大豪雨」。梅雨はあなどれません。

<蔵の様子>

 米の洗い場に面した庭では紫陽花が咲いています。
 7月に入って土用粕の出荷が始まりました。エアコンの入った江戸蔵の中で、酒粕を4キロずつ袋に詰める作業が続いています。今年は早めにたくさん買う方が多く、瓜の生育が早いことが解ります。そういえば桜の開花も早く、夏の訪れも早いようです。

写真1:塩漬けの梅
写真2:梅干し
写真3:蔵に面した紫陽花
写真4:生育する山田錦の苗

2018年7月
 中谷酒造(株)代表取締役  中谷正人

「物部」は天皇の形容詞だった!<古代史の謎は血縁関係で解ける>第九章 神器の創造と変遷<前編>
【アラカン社長の徒然草vol.106】

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読者の皆様へ:
 筆者が書き貯めた古代史に関する文章を書籍に見立て、2017年8月より毎月一回、一章の割合で2018年11月まで連載します。
 本メルマガで既に発表した文章を元にこの連載に合わせて再構成し、内容を修正、補充したものです。
 本連載のバックナンバーはVOL.94までとは別にファイルします。
*記紀に記された日本の固有名詞について。
表音に使った漢字が両書で異なることがありますので、読者の便宜のため基本的にカタカナで表記します。
*天皇名
奈良時代後期から使用される漢字表記のおくり名を使います。
*西暦年
西暦年表示を標準としています。括弧内に半角数字のみ書いたものは西暦年を示します。人名の後に二つの数字をハイフンで結んだものは生年と没年を示します。
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 歴代天皇が継承する「三種の神器」(さんしゅのじんぎ)は、記紀に書かれた神話の中で「天孫」(てんそん。太陽神アマテラスの孫)ニニギが「降臨」(こうりん。天から地上に下ること)してもたらしたヤサカニの曲玉(まがたま)、ヤタの鏡、クサナギの剣の三宝を指します。
 ただ現実として、記紀が書かれた8世紀の時点では鏡と剣の「二種の神器」でした。不思議なことにその剣は二種類あります。一つはクサナギの剣(別名アメノムラクモの剣)。もう一つはフツミタマの剣。これについては第七章で述べました。
 この章では神話と神器が創られた経緯と理由、神器が祀られる場所とその変遷を整理してたどって行くことにしましょう。

写真1:出雲王朝出現まで栄えた唐古鍵遺跡出土の勾玉

1.神器の創造

 第七章物部氏と石上神宮でも触れましたが、先ずは神器が考え出された理由を整理しておきましょう。
 中国では王朝の交代を「革命」として肯定します。即ち、滅んだ王朝の皇帝に徳がなかった為に天命が革(あらた)まり、新しい王朝ができたとします。王朝間の連続性は天命によって断たれます。新しい王朝は、その正当性を天によって与えられたとします。
 一方、日本では新しい王朝はその前の王朝の神話や歴史を自身の歴史に組み込む「万世一系理論」によって正統性を持たせます。王朝の連続性を仮想することによって新しい王朝の権力基盤を安定させる方法です。
 この考え方で編まれたものが記紀です。神武(じんむ)天皇に始まる天皇の血筋が一貫して日本を統治してきたとされました。それを証拠立てるものとして「神器」を考案しました。「私は正統なる後継者である。その証拠に神世(かみよ)から受け継がれてきた神器を持っている。」という訳です。
 賢明な読者の皆様には申し上げるまでもないことですが、「神世から受け継がれてきた神器」など実在するはずもありませんし、前政権がやすやすと神器を渡してくれるはずもありません。神器はあくまでも概念上のものです。天皇家でも、神器を祀る各々の神宮でも、神器を象徴する形ある物として剣や鏡を持っているのです。

2.王朝の変遷

 4つの王朝が奈良盆地を中心とする地域に生まれ、その4番目の王朝の後、天皇家の時代になり、それが現在に続きます。それも整理しておきましょう。
 2世紀末に出雲王朝ができます。同時期に始まる奈良県桜井市北西部の纏向(まきむく)遺跡からは山陰と北陸の土器が17%出土します。この王朝の王墓は母国・出雲に造られました。その墳丘は四隅が突出した特殊な形状です(西谷古墳群。第一章をご参照下さい)。
 60年ほど経ちますと北部九州からヤマト国(邪馬台国)が東征してきて新たな王朝を建てます。これについては第十五章で述べます。この王朝を特色づけるものは、前方後円墳、鏡、太陽信仰、絹です。記紀は二人の初代天皇を記します。神話時代と歴史の間に位置する神武天皇(初代じんむ)、歴史時代の崇神天皇(10代すじん)です。後者に因んで崇神王朝と呼びます。
 それから140年ほど経った5世紀初め、再び九州から秦氏と共に東征してきた応神天皇(15代おうじん)に始まる王朝がこれに代わります。特色は、巨大前方後円墳、大土木工事、鉄製甲冑、馬具、鉄製農具、須恵器、機織り、畑作の普及です。この王朝の天皇は「物部」と形容されることから物部(もののべ)王朝とします。
 約百年後、西暦507年に即位する継体天皇(26代けいたい)に始まる王朝は蘇我王朝です。蘇我王朝は645年の乙巳の変で蘇我本家が滅んだことを以て終わり、現代に続く天皇家の時代になります。

写真2:出雲の四隅突出型古墳模型(弥生の森3号墓)
写真3:聖なる山・三輪山(桜井市)

3.最初の王朝交代

 記紀によれば初代神武天皇は九州から東征し、奈良盆地に入ります。神武天皇は天から降臨したニニギの子孫です。奈良盆地は同じく天から降臨したニギハヤヒ神を信じる登美(とみ)長髄彦(ながすねひこ)が治めていました。記紀にナガスネヒコと出雲の関係については書かれていませんが、ナガスネヒコは崇神王朝ができるまえの奈良盆地を中心とする広い地域の支配者ですから出雲王朝の王です。
 ナガスネヒコは、神武が「天神之子」(太陽神アマテラスの子孫)であることを知りますが従わず、ニギハヤヒ神に殺され、一族は神武に服従します。
 その後、神武は大物主(おおものぬし。奈良盆地東部の三輪山に祀られる神。出雲の神・大国主に同じ)の孫・ヒメタタライスズ姫(古事記では、大物主の娘)を娶ります。
 ここで、神武登場まで真面目に日本書紀を読んできた人なら「何でやねん!」と大きな疑問が湧くはずです。神話時代が終わって、ようやく初代天皇の件(くだり)になったと思っていると、現実世界で征服された出雲王が信じていたニギハヤヒ神を差し置いて、「179万2千4百70余年」以上前に登場した大物主神の孫娘が出てくるのです。その理由は、後編17.天孫降臨と神武天皇の創造で述べます。
 ともかく、姫の名の「タタラ」は製鉄の溶鉱炉、「イスズ」は水辺に鈴なりになる原料の褐鉄鉱。出雲の製鉄技術を、2番目の王朝が継承したことを暗示します。二人の間に生まれるのが第二代綏靖(すいぜい)天皇です。出雲から崇神へ、二つの王朝を接続する神話が創られたのです。

4.最初の神器の可能性

 崇神王朝は、後にフツミタマと呼ばれる神器剣を創った可能性があります。記紀の記述では、フツミタマの剣は神武が登美ナガスネヒコを征伐する過程で、窮地を脱する時に使われました。
 日本書紀ではニギハヤヒに「饒速日」という字が当てられています。太陽神です。ニギハヤヒは「天神之子」と書かれています。神武天皇も太陽神アマテラスの子孫で「天神之子」。共通する「天神之子」という表現を以て、ニギハヤヒも太陽神アマテラスの子孫であることが暗示されています。その共通の祖先神アマテラスを象徴する神器としての鏡を創った可能性もあります。崇神王朝が造営した前方後円墳には多くの鏡が副葬され、鏡への嗜好が明確です。この点については、後に述べます。
 実はこの時点では共通の太陽神をアマテラスとは呼んでいません。前章で述べたようにアマテラスは7世紀末、藤原不比等(ふひと)と持統(じとう)天皇が生み出した名称です。
 崇神王朝は太陽神を何と呼んでいたのか。ニギハヤヒと呼んだはずです。それは次の物部王朝にもニギハヤヒ信仰が引き継がれたことで解るのです。

5.接続神話

 記紀によれば物部氏は、ニギハヤヒと出雲王朝最後の王・登美ナガスネヒコの妹との間に生まれたウマシマジを祖先としています。
 ニギハヤヒは太陽神、即ち神ですから現実として結婚はありえず、征服者であろうウマシマジを正当化する為に作られた王朝間の接続神話のようです。とするならばこの神話を作ったのは崇神王朝であり、物部氏は前王朝の神話を受け継いだことを意味します。
 上記3.最初の王朝交代で記紀に書かれた出雲王朝から崇神王朝への接続神話を記しましたが、ここで最初の王朝交代における接続神話の当初の形を確定すると共に、後に記紀において記された内容との対比を行っておきましょう。
 当初の形は太陽神ニギハヤヒが十種神宝(とくさのかんだから)を持って降臨し、太陽神を信仰する前王朝の王(神)の妹と結婚。生まれたのが征服者(継承者)のウマシマジです。即ち、太陽神の降臨があり、その太陽神は共通の信仰の対象であり、その太陽神と被征服者の神の妹との婚姻により生まれたのが征服者であるとして、征服者の正統性を担保するという形でした。
 次は記紀。先ず太陽神アマテラスの孫・ニニギが三種の神器を持って降臨し、ニニギの子孫で、神話と歴史の間に位置する神武天皇が前王朝を征服し、前王朝の神・大物主の(孫)娘と結婚し、生まれるのが継承者・綏靖天皇(2代すいぜい)です。神武は初代天皇として統治も行っていますので、神と征服者を兼任しています。
 太陽神ニギハヤヒの役割は、太陽神アマテラス、その孫・ニニギ、その子孫・神武天皇が担うことになりました。日本の歴史を長く見せるために神を分化し複雑にしたのですが、これについては後に述べます。
 ウマシマジの征服者としての役割は神話と歴史の中間にあたる神武天皇が、前王朝の継承者としての役割は婚姻によって生まれた綏靖天皇が担うことになりました。この綏靖天皇は日本の歴史を長く見せる為の架空の存在で(欠史八代。18.歴史の延長で述べます)、実態は崇神天皇です。
 物部王朝は前王朝の歴史も自身のものに組み込みました。崇神王朝最後の仲哀(ちゅうあい)天皇と神功(じんぐう)皇后の間に生まれた応神(おうじん)天皇が物部王朝初代です。やはり王朝間の接続話を創ったのです。それは王墓の形状として前方後円墳を継承したことで裏付けられます。

6.物部王朝の神器

 今日、物部氏ゆかりの石上(いそのかみ)神宮(奈良県天理市)は、ニギハヤヒが天から地上にもたらした十種神宝に宿るフルミタマ神を祀ります(十種神宝は現存せず)。この章の冒頭にニニギが天孫降臨によって三種の神器を地上にもたらしたと記紀に書かれていることを述べましたが、それに先だってニギハヤヒが天より降臨する神話が創られていたことが解ります。
 十種神宝は、剣1種、鏡2種、比礼(ひれ。振ることによって力を持つ、神事に用いる道具)3種、玉4種です。この十種神宝は、後に生み出される三種の神器の前の形であろうと推測できます。
 今日、石上神宮の主祭神はフツミタマです。フツミタマの元はこの十種神宝の剣であったものが、後に天武天皇が石上神宮創建にあたって「フツミタマ剣に宿る神」として独立させたものと私は考えます(注)。
 第七章で述べましたが、物部王朝は神代から受け継がれる神器である十種神宝の実在感を高めるために神宝(神器)を祀る社(やしろ)を建てました。それが石上神宮の前身、石上社です。

注:日本後紀桓武天皇延暦23年(804)2月、石上社の兵仗(ひょうじょう。神器ではない武器)を移したところ天皇が病気になり怪異が起こる。この時の鎮魂の対象がフツミタマではなく十種神宝に宿るフルミタマであったことからフツミタマの原点は十種神宝にあったことが解る。
 「兵仗を移した」理由について。桓武天皇は物部の血を強く意識しており(第五章天武天皇10.桓武の郊祀をご参照下さい)、物部王朝が考案した神器・十種神宝を祀る石上神宮の純化を図るためにそれ以外の武器類の保管場所を別に求めたものと筆者は推測する。

写真4:石上神宮宝物(同宮絵葉書より)

7.物部王朝の神話と歴史

 この当時、天皇の呼称はまだ使われていませんが、天皇という語を使って物部王朝の神話と歴史を整理すれば次の通りです。

太陽神ニギハヤヒの降臨(十種神宝の創造)
  ↓
出雲王朝の滅亡
  ↓
ニギハヤヒと出雲王朝の神の妹の結婚、
ウマシマジの誕生(王朝間の接続神話)
  ↓
崇神王朝の成立
  ↓
仲哀天皇と神功皇后の結婚、
応神天皇の誕生(王朝間の接続話)
  ↓
物部王朝の成立

8.蘇我王朝

 蘇我王朝の初代継体(けいたい)天皇は、前王朝の初代応神(おうじん)天皇の五世孫。王朝間の接続は容易でした。
 現実としても蘇我王朝は前王朝の物部氏と姻戚関係を結びました。物部氏の勢力は強く残存しており、継体は太子、皇子と共に殺され8年間の抗争が起きます(第三章1.継体天皇の次世代を参照下さい)。やがて即位した欽明(きんめい)天皇、次の敏達(びだつ)天皇は蘇我と物部のハーフです。
 587年、蘇我氏が物部氏を滅ぼしますと物部の血は不要ですが、その後も物部の血が入った天皇を傀儡(かいらい)として擁立し続けました。蘇我と物部の混血が天皇の血筋となり、今日に続く天皇家の概念が生まれます。
 その天皇家から聖徳太子という素晴らしいリーダーが生まれたのは蘇我氏の誤算でした。死後も太子の評価は上がる一方です。それにつれて太子の子・山背大兄王(やましろのおおえのおう)の人望も高まったため、蘇我氏は643年に一族を皆殺しにします。
 そこに天皇家の逆襲が待っていました。645年、天皇家によって蘇我本家が滅ぼされるのです。蘇我王朝の滅亡、そして今に続く天皇家の時代の始まりです。

9.歴史書編纂

 672年、壬申(じんしん)の乱に勝利した天武(てんむ)は、天皇を中心とした中央集権国家の建設に邁進します。「天皇」の呼称を始めたのが天武天皇です。中国の「皇帝」を意識してのことでした。それまでは「大王」(おおきみ)だったのです。
 天武は日本を中国に対抗できる立派な国家にしようと考えました。中国は広大な国土と膨大な人口を擁します。そして長い文明と歴史を持ちます。日本も長い歴史と文明を持ち続けてきたという記録を残さなければなりません。中国は絶対的な権力を持つ皇帝が統治します。日本も絶対的な力を持つ天皇が神代(かみよ)から統治してきたとする歴史を作り、天皇を神格化し、未来に向けて天皇による統治を容易にする歴史書を作ることにしました。

10.二つめの神剣

 天武は、太陽神ニギハヤヒが地上にもたらし出雲王朝の征服に役立った剣を「フツミタマ」として、十種神宝から独立した神剣として祀ることにしました。その上で二つめの神剣を創造します。クサナギの剣です。
 第七章に書きましたが石上神宮の摂社・出雲建雄神社(いずもたけおじんじゃ)に書かれた由緒では、「出雲建雄神は草薙の神剣の御霊に坐す。今を去ること千三百余年前、天武天皇朱鳥元年、布留川上日の谷に瑞雲立ち上る中、神剣光を放ちて現れ、『今、此の地に天降り、諸の氏人を守らん』と宣り給い、即ちに鎮座し給う。」とあります。即ち、天武天皇治世の末年に石上(いそのかみ)で祭祀が始まりました。

写真5:出雲建雄神社

11.二つの理由

 なぜ二つめの神剣を創る必要があったのでしょう。天武はフツミタマの剣に欠陥があることに気づきました。なぜならこの剣は最初の出雲王朝の征服に役立ったものであり、出雲王朝から継承されたものではないからです。
 天武は王朝間の連続性を強化するほど長い歴史の頂点に自身が立つことになり、盤石な中央集権国家が形成できると考えました。その為には最初の出雲王朝から受け継がれた剣が必要でした。
 まず天武は太陽神ニギハヤヒとは別に、ニギハヤヒの祖先として太陽神オオヒルメを創造しました。おそらく出雲で祀られていたであろう神・スサノオをオオヒルメ(古事記、日本書紀編纂時に「アマテラス」に改変)の弟ということにします。スサノオは天下り、退治した八岐大蛇(やまたのおろち)からクサナギの剣を得ます。そしてスサノオの子が大国主(おおくにぬし)、即ち出雲王朝の王(神)ということにしました。クサナギの剣こそ初代出雲王朝が成立する前から存在し、連綿と受け継がれてきた神器となったのです。
 天武天皇が創造した神話と歴史は次のようなものだったと推測できます。

創造神イザナギとイザナミの結婚
  ↓
太陽神オオヒルメの誕生
  ↓
オオヒルメの弟・スサノオの降臨
  ↓
八岐大蛇退治(クサナギの剣の神話)
  ↓
スサノオとクシイナダ姫の結婚、
大国主の誕生、大国主による国造り
出雲王朝の成立
  ↓
太陽神オオヒルメの子ニギハヤヒ神の降臨
(フツミタマ剣の神話)
  ↓
大国主(大物主)の国譲り
  ↓
ニギハヤヒ神と大物主の妹の結婚、
ウマシマジ(綏靖天皇)の誕生(王朝間の接続神話)
崇神王朝の成立(これ以前は神話、以後は歴史)
  ↓
ヤマトタケルの遠征(クサナギの剣の神話)
  ↓
仲哀(ちゅうあい)天皇と神功(じんぐう)皇后の結婚、
応神(おうじん)天皇の誕生(王朝間の接続話)
物部王朝の成立
  ↓
継体(けいたい)天皇(応神天皇の五世孫)
(蘇我王朝)
  ↓
天武天皇

12.神器鏡の再生

 天武は太陽神オオヒルメの象徴として神器鏡を創造しました。その鏡を祀るために伊勢神宮を、フツミタマの剣を祀るために石上神宮を創建しクサナギの剣を加えました。天武が創った「神宮」とは、「宮」の文字が示すように神器を安置し祭祀を行う役所・斎宮(さいぐう)のことでした。
 天武が神器鏡を創造したのは、初めて神器の鏡を創造したであろう崇神(すじん)王朝を意識してのことでした。なぜそのようなことが言えるのか。崇神王朝が奈良盆地に最初に造った前方後円墳・箸墓(はしはか)古墳は同王朝の始祖王・崇神天皇墓(もしくはヒミコの再葬墓、或いは壹与墓。第十五章で述べる)とみられますが、その古墳と、そのそばの太陽を祀る桧原(ひばら)神社、伊勢神宮斎宮跡が同緯度に並んでいるからです(小川光三氏が発見した「太陽の道」。詳しくは第十五章で述べる)。太陽は始祖王墓の真東(まひがし)、伊勢神宮の彼方から昇ります。明確に太陽と鏡を意識して斎宮の場所を選んだことが解ります。

写真6:石上神宮楼門(重要文化財)
写真7:石上神宮拝殿(国宝)

13.山の神

 天武が創った神器の鏡は、太陽神のみならずもう一つの神を象徴していました。生死を司り、豊穣をもたらす山の神です。山の神の象徴は蛇。「カガミ」の「カカ」は蛇の古語。「ミ」は身。鏡は蛇神を映すもの、山の神の象徴でもあったのです。
 この山の神信仰は弥生時代に始まるもので、最初の出雲王朝にも、その前の唐古・鍵(からこかぎ)遺跡を残した人々にも共通したものでした。崇神王朝も持っていたはずです。天武は鏡と共に山の神信仰も再生したのです。山の神信仰については第十四章で詳しく述べます。
 天武は山の神を神話と歴史に織り込みましたが、後に記紀が編纂される時にその記述は削除されてしまいます。意図的であったかどうかは解りませんが、次の箇所には明確に残りました。
 天武はクサナギの剣を創造し、その実在感を高める為にヤマトタケルの東国遠征のくだりを挿入します。第12代景行天皇の世、皇子ヤマトタケルはクサナギの剣を持ち東国遠征に向かいます。「クサ」は猛々しいという形容詞で、クサナギの剣とは「ギラギラ光る切れ味抜群の剣」といった意味ですが、その剣で草をないで危難を切り抜けたので草薙剣(くさなぎのつるぎ)と呼ばれるようになったとする駄洒落(だじゃれ)のような一説も記して印象を高めています。その後、剣を持たずに出かけたヤマトタケルは伊吹山(いぶきやま)で山の神との戦いで消耗し、これが死につながります。
 クサナギの剣自体、スサノオが退治した八岐大蛇(やまたのおろち)の尾から出たものです。大蛇に呑まれようとするクシイナダ姫、その老父母アシナヅチ、テナヅチ、その祖先ヤマツミ神の名は全て蛇神を意味しています。即ち、それぞれ「櫛稲田姫」、「足無つ霊(ち)」、「手無つ霊」、「山つ蛇(み)神」です。櫛は蛇の象徴であり蛇は稲田の守護神、蛇には足も手もありません(吉野裕子著「山の神」第一章)。クシイナダ姫とスサノオの子が出雲の王(神)大己貴(おおあなむち。大国主に同じ)です。太陽神の弟であるスサノオが天から降臨し、稲作農民を象徴する山の神の娘・クシイナダ姫と結婚し、その間に生まれた子で太陽神の子孫でもある大国主が出雲を征服し、そして日本を支配したとする神話です。
 私は本章5.接続神話 で、「物部氏は、ニギハヤヒと出雲王朝最後の王・登美ナガスネヒコの妹の間に生まれたウマシマジを祖先としています。(中略)征服者であろうウマシマジを正当化する為に作られた王朝間の接続神話のようです。」と述べました。出雲王朝の初代であり征服者の大己貴(大国主)と崇神王朝の初代であり征服者のウマシマジが相似関係にあることが解ります。スサノオの神話自体はクサナギの剣を生み出す為に天武天皇が創作したものですが、接続神話の原型は出雲王朝が作った可能性もありそうです。

第九章<前編>終わり

「物部」は天皇の形容詞だった!<古代史の謎は血縁関係で解ける>
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